冬季蝦夷地二十五里単独徒歩漫遊紀行

 行為によって肉体と精神を形作って来た僕にとって、旅に出る行為はいつの間にか義務のようになっていた。言葉でもなく思考でもなく認識でもなく、行為を通じてしか自己を表現できない。気の進まない計画を僕は頭の中で少しずつ組み立てていった。その計画は北海道を単独徒歩で縦断するというものだった。僕は数年前にヒッチハイクを使って京都から青森の龍飛崎をいう場所まで行った。それは大学の授業の中の些細な1つのイベントのようなもので、京都にある僕の大学から30時間で持ち金1000円でどこまで行けるのかというものだった。僕のチームは夜通し10台以上の車を乗り継ぎ、30時間後には龍飛崎にいた。龍飛崎から見渡せる北海道の大地に僕はいつかいかなければならないと思っていた。そこからまた、続きを始めるのだと。もうヒッチハイクはしない、お金も使う、時間制限もない、しかし限りなくアナログな方法で過程に密接に関わり合いながら旅をするにはやはり徒歩での旅だと思った。そこで弊害になるのはやはりクマだった。彼らの出現を回避するためには冬眠中にひっそりと歩みを進める必要がある。最近では冬眠中の食料を十分に確保できないがために冬眠しないクマもいるみたいだった。いつものように地図を買い込み、防寒着を大量にパッキングした。いくら環境を整えても、気が進まないので知人友人に北海道に行くと宣言してしまって無理に出発へ向かわざるを得ない環境を整えてった。大寒の日を過ぎて、一番の寒気が収まった頃、僕はゆっくりと玄関のドアを開けた。ダメなら帰ってこれば良い、とにかく僕は玄関のドアを開けることに成功した。

 家を出で最寄り駅まで向かう道中少しの雨が降っていた。北に着く頃には全て雪に変わるだろう。この日は1日中移動した。東京で乗りつぎ、新幹線で新青森駅まで向かった。東京駅というものはいつ来てもその全貌を把握することができない。僕が駅内の一体どこを歩いているのか検討もつかなかったが、北陸新幹線と書かれた文字だけを追って必要なら改札だって通った。新青森からタクシーでフェリー乗り場に行き、チケットを買う。以前龍飛崎に来た時にフェリーをヒッチハイクしようか迷わされたフェリーに今まさに乗り込んだ。終始興奮気味に船内での時間を過ごした後、18時過ぎ函館に着いた。予想した通り京都で見た雨は、ここでは雪に変わっていた。積雪に運動靴を濡らしながら予約していた旅館へと向かった。チェックインを済ました後はスポーツ店に行きガスを五缶購入した。このガスと、持ち歩く水分の重さをザックに加えると、重さは26kgほどになった。

 日照時間が短く北海道という土地でどれだけ歩けるのか予想できず、車が少ない時間に少しでも距離を稼ぐために午前3時と早めに出発した。スノーブーツには履き替えたのでもう靴が濡れる心配はない。旅館を出ると雪がパラついていた。この日は函館から北に北上し突き当たりの海に面する街、森町へと向かう。出発してからの数時間は函館の街の中を歩いた。八時ごろまでは気温の低さと車の少なさも相まって順調に進んだ。僕は普段の生活はもちろんのこと、山や歩き旅でも冬の方が活動しやすい。寒さに強いわけではないが、キンと冷えた空気の中に身を置くのは嫌いじゃない。8時ごろになると、家から人々が出て来て大きなスコップを持って静かに雪かきを始める。これが、北海道に済む人々の毎朝の日課のようだった。品の良い雪かき中の淑女に何をしているのか尋ねられた。僕は旅をしていて北に向かっていると言った。夏はたくさんいるけど、冬にそういう人を見かけることは少ないとのことだった。僕はこの淑女と言葉を交わした時から薄らと帰京願望というものが芽生え始めていた。自分のしていることが、何か根本的に間違ってはいないが何かこうピースがうまくハマっていないのではないかと。しばらくして、そのような邪念は雪かきの音と共にかき消された。

 住宅街を抜けると森町へと抜ける峠道に入る。車通りは多くなり、澄んだ空気と排気ガスを同時に吸い続けたので、あまり気分の良い状態ではなかった。そこに追い討ちをかけるように雪の威力が増していく。僕は雨や雪が降った時には、まるでそれらが降っていないかのように振る舞ってやり過ごす。しかし、降り続く雪は僕の呑気で気楽な対処法には付き合ってはくれなかった。いくつか僕を憤慨させていった事項として次のようなものが挙げられる。まず5万分の1の縮尺地図と直線的な道の相性が歩いということだ。たまにしか訪れない目印の分岐に着くまでは脳内での所要時間と実際の所要時間のズレが大きい。また5年前から改定されていないこの地図上に存在する建物が現存するのかどうかもよくわかっていない。目にしている建物は地図上の建物と一致しているのかもわからない。次に荷物の重さである。重さが26kgのザック。僕の体重は53kgである。自分の体重の約半分の荷物を担ぎ続けて長時間移動するというのは、もう何をしているのかわからなくなってくる。荷物を運んでいるのか、荷物に運ばされているのかわからない状態になっていた。そして風に煽られて向かってくる雪が最後のトドメを刺す。僕は歩行者がいない事を言いことに広大な大地の景観にはとても似合わない罵詈雑言を吐き捨て続けながら森町に向かった。

 とうとう視界もホワイトアウトで見えにくくなって我慢できなくなった時、僕はお店のような建物の軒下で休ませてもらった。そこが何の店なのかもわからなかったが、とにかく待機させてもらった。歩いていると体温は適温で維持されるが、一旦歩みを止めると一気に体中の体温が下がりだす。僕は気がついたらお店のドアを開け、雨宿りー正確には雪宿りーさせてくださいと言っていた。商品のようなものは何もなく家のような店だった。すると店主らしき女性が、インスタントだけど蕎麦食べる?と聞いて来て、僕はありがたく貰うことにした。その会話をした1分後には出て来たのでおそらく店主が食べる予定のお昼ご飯だったのだろう。店主はまた自分用に新しいものを作っていた。僕は薪ストーブの前に座り必死に蕎麦を食べた。やはりここでも、冬の旅人は珍しい、夏に来たら良いのにと言われ僕は本当にその通りだと思った。蕎麦を食べ終えた頃雪も安定したので僕は暖かい部屋を名残惜しく出発した。
 泣き言に近い罵詈雑言を盛大に叫びながら、森町までなんとか歩いた。30kmほどしか進んでいないが、かかった時間は14時間30分だった。道の駅の軒下にテントを張った。自販機でコーラやココアを購入し急速にカロリーを補給した。食事はラーメンとおにぎりで炭水化物をしっかりと補給し、死んだように眠った。

 雪が降り続いている。テントから出ると、テントを張っていたところ以外白い雪に覆われていた。僕は軒下にテントを張ったはずだったが雪が風で飛ばされたらしい。誰も足跡をつけていない雪原に変わった道の駅駐車場に1歩目を踏み出した。昨日蕎麦をご馳走してくれた店主が言っていたが僕が北海道に着く前は気温が高く雪ではなく雨が降っていたそうだ。そして僕が北海道に足を踏み入れてから雪が降り始めたようだ。今のところ3日連続降雪記録を更新している。

 右手に海が見えて来た。森町を過ぎて海岸沿いを西に向かっている証拠だ。雪と海のコントラストが言葉にできないくらい美しい、などとは思わない。正直言って僕はこれまで景色に興味を示したことはない。春になって桜が咲いていても、夜空に満点の星空が浮かんでいても何も思わない。ああ、桜だ。くらいは思うかもしれない。しかし、それ以上は何も思えない。自分で苦労した先に掴み取った何気ない景色が好きだ。例えば昨日食べた蕎麦と店主の景色、罵詈雑言を吐きながらも歩き続ける自分の足の爪先。そういった何気ない行為の中に人は景色というものを見ると思う。景色を見るというのは大変難しい行為だ。いつも見えていた景色が本物だ、確かに自分で掴み取ったものだと思っても自分の行為が作り出した情緒的景色を目の当たりにした時に人は景色を見るという本当の意味を獲得するのだろう。

 僕はやっと現れた脇道に入ることにした。これまで北海道の直線的道路を歩き続けていて幾分退屈な時間を過ごしていた。気温は低く、速度を出す車の音が忙しなく響いているのにもかかわらず僕はあまりの単調さに定期的に取る休憩の最中道路脇で眠った。そして体温が下がってくることを確認するとゆっくりと目を開けてザックを背負う。そんな怠惰にも見える歩調で進んでいた僕にとってはこの脇道が救いだった。すぐに車の量は激減し静寂がもたらされた。雪道に立ち並ぶ住宅街はどこか寂しげに見えた。前方に車を駐車した老人が僕にどこまでいくのか尋ねた。できれば宗谷岬まで行きたいが、長万部で帰ろうと思っている旨を正直に伝えた。老人は僕の意見に肯定的で、うん、帰った方がいいと優しい口調で言われた。長万部と言わず、その手前の八雲でもう帰った方がいい。夏に来るならまだしも…という感じだった。僕は決してポジティブな意味では捉えられない勇気をもらった。お別れを言って数歩歩いた時だった、その老人の声がもう一度僕を引き止める。
「にーちゃーん!」手招きをして僕に家と見られる建物に、僕を招き入れようとしている。僕は顔だけでなく体ごと振り返り老人の方へ向かった。どうやら少し休憩していきなさいということだった。何ならおしゃべりもしていきなさいということだった。建物に入ると外からは想像できないほど広い空間があった。また家ではなく作業場のようなスペースだった。1人の男性は何か作業をしていて、奥には薪ストーブがあり別の老人が座っていた。僕はザックを机の上に下ろし薪ストーブの前に座った。まず手始めにカフェオレをいただいた。そのあとは帆立の耳のスルメをもらった。勢いの良いもてなしだった。少し話している中で、内地から来たのかと聞かれた。僕は内地、という言葉を知らなかったしそれがどこかの地名を指しているのかもわからなかった。しばらくして、それが本土だということがわかった。内地という言葉の響きはどこか遠い国に来たのかと思わせる、いや来てしまったと思わせるところがある。何かと戦っている気さえしてくる。しかし事実として、僕はどうやら内地という場所から遥々海を渡り蝦夷地という場所に来たようだった。内地という言葉から見る北海道は蝦夷地という言葉の方が似合っていると思った。僕はこの言葉を聞いて、かつて吉田茂の側近だった白洲次郎を思い出した。政治の中枢にいた人物であったが、戦争の敗北を予見していち早く別荘で静かに農作業に勤しんだ。外側にいながらも、中枢をしっかりと関与し必要があれば力を貸す彼はカントリージェントルマンと呼ばれた。この本土を内地と表す言葉には、どこか本土からデタッチメントするとともに、北海道を含めた日本全体のことを常に考えコミットメントしているという意に捉えることができた。僕は2杯目のカフェオレを口にし、レインウェアのポケットにそのまま入れていた帆立のスルメを取り出して口に運んだ。
 言うまでもないかもしれないが、ここ一帯は帆立の漁村だ。男たちは船に乗り女性たちは帆立に糸を通す作業をする。糸を通した帆立は1年間成長させ、おいしくなったところで出荷される。そのちょうどおいしくなった帆立が、10個は超えていただろうか薪ストーブの上にずらりと並べられていた。僕はそれを食べるように勧められた。ほんのりと海の香りが広がるとても新鮮な帆立だった。僕は帆立というものをちゃんと口にしたのは一度か二度だったが、これはその中でお群を抜いていることは確かだった。口に入れるたびに、食べ、食べと勧めてくる老人たち。僕は急いで帆立を口に運んだ。食べ終わった頃、残っていたカフェオレを口にし、帆立のスルメを口に運んだ。外で作業をしていた大将的な腹の出た男が部屋に入って来た。僕が宗谷岬に行こうとしていることを伝えると、「やめとけ、やめとけ、あんなとこ何もない」老人たちは、僕に帰った方が良いって言ったんだと大将に伝えると、それに同意し「それかうちでバイトして行ったらいい!」と勢い良く言った。僕はバイトの誘いをやんわりと断ったが一つ心に決めたことがあった。それは長万部から帰るということだ。正直言ってかなり歩くペースが遅かった。26kgの荷物を背負い、重たいスノーブーツで一五時間ほど歩いて30kmしか進まず、二時間ほどの休憩と食事を取った後6,7時間後に起床。もうこれは旅ではない。一種の労働である。技術的理由でもなく天候的理由でもない、これは僕のセンチメントに過ぎないのかもしれないが、撤退の理由としては十分な説得力を持っていた。
高架下で眠ると決めて、歩道を歩いていると対向車線の歩道から僕を呼んでいる声がする。
「おーい、どこから来たの?」
僕はもう自分がどこから歩いて来たのかもわらくかっていなかった。歩き出したのが昨日なのか、それよりも前のことなのか。濃密な時間に浸されて記憶が溶けてきたようだ。僕が何とか地名を絞り出すと男はこちらに渡って来た。車で走っていると僕を見かけたそうだ。どこまで行くのかと聞かれ、明日は長万部に行くと言った。僕はまだ自分がどこに行くのかを答えることができた。
「何でまた冬に?チャリチャリ!夏にチャリ!」
どうかもう何も言わないでほしい。全部分かったんだのだから。
 
 「早いな」
確かに朝の2時半には目が覚めて三時間半にはもう歩き出していた僕は、この世界の中でもかなりの早起きな方だろう。雪かきをしていた男は僕にそう声をかけ、続けざまに昨日君を見たと、いつも画面越しに見ていた彼が今目の前に、という感じで言った。一体僕はどれだけの人間に見られ、そして覚えられながら歩いているのだろう。もう少し有名になっても良いんじゃないだろうか、ほんの少しなら決して誰も文句は言わないだろう。
 足取りはひどく重かったし足の裏には豆のようなものができている感触があった。しかし心持ちは非常に軽い。長万部に到着してからも先に進むという選択肢を微量に残していながらも、一旦は長万部で終了すると決めていたからだ。テント泊ではなく今日は宿をとってゆっくりと休むことにした。テント場を探す時間や建てる時間が省かれるので、少し余裕を持って歩くことができた。泊まる予定の民宿は休憩中に電話をかけ素泊まり1泊で予約した。長万部はいくつか民宿が存在するが、僕の予約した民宿が一番安かった。ようやくこの長い旅が終わる。長万部以降はまた峠越えであり、さらに時間がかかってくるだろう。そう考えると、函館から100kmほどの長万部での終了が何にもなく綺麗な終わり方に見えた。もやはそれは縦断を目指していた男の撤退ではなく、100kmを確かに歩き切り、悠々と凱旋すると云う旅に早変わりする。この日もまた、雪が降っていた。

 車から降りて僕を待っていた夫婦に乗っていくかと誘われ、もう少しだから大丈夫ですと言った。僕は背中を丸め、腕を垂らし、まるで世界が終わった後に奇跡的に生存する、死を待つだけの救いようのない生物のような格好で歩いていたので心配になったらしい。乗り、乗らないの問答がしばらく繰り返されたのち僕は戦いに勝利した。どこまで行くのかと聞かれ、僕はさっき電話で予約したはずの民宿の名前をパッと思い出すことができなかった。しばらくしてその名前を出すと、その夫婦は民宿の店主と知り合いみたいだった。その夫婦もまた民宿を営んでいるという。ここからまだ5kmほどあると言われ、また問答を始めかねなかったので僕は、では後1時間くらいには着くと思うので、と言って別れた。

 少し急ぎ足で進み、17時過ぎには民宿に着いた。玄関を開けて、すいませんと呼ぶが誰も来なかった。僕は玄関に座り、ひとまず靴を脱ぐことにした。靴紐を解いていると、後ろから静かに人影が現れ、一瞬の緊張が走った。その民宿の店主だった。歳は69、白髪混じりの柔らかなオールバックで顔には人生のあらゆる苦労を乗り越えて来たと思わせるシワがいくつかあった。僕はチェックインをすませ、学生割でいくつか割り引いてもらった後お風呂に入った。足の裏には水膨れができていて、靴を脱ぐとその痛みによってまともに歩くことができなかった。靴を履いていないと、足の裏が内側に2つ折りにされそうだった。お湯にも浸かれずシャワーだけだったが、それでも少しは疲れを癒すことができた。
 お風呂から上がった後、僕は店主と少し雑談をした。うまく説明することはできないが、自分の頭で考え行動し小さくではあるが地に足をついて自分の居場所を確立している。そのような人だった。今ここで彼の活動や言動をありありと示しその偉大さを示すことはできない。いったん言葉にしてしまえばその言葉は羽を付けてどこかに飛んでいきそうなほど軽くなるような気がする。ただ1つ彼が言ったハチドリの話が印象的だった。南アメリカのハチドリの話だ。ある大きな山火事があって、そこから色んな動物が逃げ出してくる。でもハチドリだけが、その小さなクチバシにほんの少しの水を蓄えて山火事を何往復もして消そうとした。他の動物たちはそんなことをしても無駄だと言うがハチドリはこう言い返す。僕はただ僕のできることをやっているだけです、と。彼もまた長万部という土地で、静かに、そして忙しなく水を運んでいるのだろう。
 
 歩くべきところは歩いた、見るべきものは見た、会うべき人に会い、聞くべきことは聞いた。何も思い残すことはない。僕は初めからこの旅の終着点が長万部であったかのような朗らかな顔で函館に向かう電車に乗り込んだ。

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