東海道五十三次単独徒歩参勤交代紀行

    約2ヶ月間、僕は東海道五十三次に行きたいという思いを馳せながらも本格的に準備をし始めたのは、わずか1週間ほど前からだった。僕の旅というのは、時々思い切りが良すぎるくらい突発的に始まる。時には悪すぎるくらいに慎重に足踏みを繰り返しその場から動くことを断固として拒否する。琵琶湖一周で使用した40Lザックに、今回はツエルトではなくテントを前回の装備に新しく加えた。琵琶湖を徒歩で1周した際に、ツエルトも雨を通すことが発覚してから緊急用以外でツエルトを使用するのをやめた。野外活動における、宿泊環境の快適性は何にも変えがたいものである。テントを張る場所は限りなく水平か、石などは取り除けているのか、風は当たりにくい場所なのか、風下に入口をむけているのか、歩き旅ならば人に見つかりにくく背景と同化できるような場所を選べているのかと、テントを張るという行為1つとっても非常に奥が深い。また、約2週間という工程を予期していたので、ソーラーパネルも持参した。1日中快晴でないと十分な電力を賄うのは難しいがモバイルバッテリーをたくさん持つより、薄いソーラーパネルが一つあれば、ザックを軽くすることができる。

    出発の前日夜遅くにパッキングを終わらせて、午前三時まで仮眠を取った。タクシーに乗り込み、東海道五十三次(以後東海道)の起点である三条大橋まで向かった。西側の橋の付根には東海道の始まりを記す文章と江戸商人を模する2つの銅像が立っていた。いよいよ僕は京都から東京まで、いや現代版参勤交代の大名となり江戸まで歩くんだという実感を静かに確かめた。想定した約2週間という日程は、歩くという行為を通してみると想像に難しいくらい程遠かった。ただ、やることだけはいつもと変わらない。地図に目を通して足の爪先と睨めっこしながら歩くことだけだ。三条大橋を渡り蹴上方面に向かって緩やかな坂道を登っていった。

   東海道というのは江戸時代に整備された街道の1つである。大名を一時的に江戸に住まわせる参勤交代や物資の輸送、旅人の移動などに使われた。五十三というのは、京都から江戸までの宿駅の数を表している。東海道というのはいわゆる今の一号線というわけだが、旧東海道と呼ばれる江戸時代に使用されていた道が記された地図を書店で購入したので、それに沿って歩くことにした。実際には、思うように旧東海道を歩けるというものでもなかった。本タイプの地図をじっくりと見ながら歩みを進めていても、いつも間にか曲がるべき小道を過ぎて歩いており、狐に摘まれたように一号線へと戻ってしまうようなことが何度かあった。旧東海道と言っても、古い町並みがのこされている箇所は少なく一号線ほどの大通りではないがありふれた一般道に近いことが多い。そんな場所には時々小さい看板に東海道と書かれた文字を見ることができる。一度一号線に出てしまっても旧街道まで引き返すことはせず旧街道に合流できそうなところまで一号線を歩き続けた。

 線路を電車が走り、学生や社会人が急ぎ足で通学通勤している、街道とは程遠い街中を僕は場違いな身なりをして、場違いな荷物を持って、場違いな速度でゆっくりと歩いた。女子小学生のグループにも抜かされて、こちらを見ながら「冒険家だ」とヒソヒソと話し込んでいる。平日の早朝から東京に向かって歩くという行為は社会的に見ても、いや誰から見ても何の意義も果たしていなければ役にも立っていないが彼女達のクラスでの話題作りに一役買って出たという点では益こそあっても損なことはないだろう。

 それぞれの宿場は○○宿という名前で書かれている。例えば草津宿、大津宿と言ったような名前の宿が53個続いている。今日は水口宿まで歩いた。三条大橋から約50kmである。1日に歩く距離としては長い方だと思う。時間にして14時間ほど歩いた。初日からかなりの距離を歩いたのは理由がある。僕は今回東海道を徒歩で歩いているが、一度だけ船に乗る。「七里の渡し」という江戸時代にも使われていた、三重の桑名宿から愛知の宮宿を繋ぐ海路がある。一里が約四キロなので38kmの徒歩距離を省いて海路で向かう。徒歩と言いながらも船に乗る行為は不純に思われるかもしれないが、僕はここで船に乗って海路を渡ることが江戸に思いを馳せる歴史の擬似体験を可能にすると思ったし、船で渡るという行為に一種のロマンティックな動機を見出していた。船を出す会社は僕の知る限りで一社しかなく、通称大関ママと呼ばれる人物がその船(小型ボート)を出す。出発前に大関ママに電話して、船を予約した。乗車金は既に決まっており、人数によって1人が出す料金が少なくなっていくのだと言う。しかし、五月に船を利用する客は少なく恐らく僕1人になる予定だった。大関ママは電話で話す限り年齢は定かではないが、かなり活発で明るい話し口である一方で、正確に当日の天気状況や出発時間について情報を提供してくれる面も持ち合わせていた。今年は早めの梅雨が来ているらしく、あと1日で桑名に着けば梅雨の影響で波が荒れる心配をせず、余裕を持って宮宿に行くことができると教えられた。それが、僕が1日目から50kmという距離を歩いた理由である。この日はうまく宿泊場所が決まらなかった。あまり適切な場所ではなかったが、交差点にちかい空き地とも駐車場とも取れない場所の隅っこにテントを張ることにした。近くに墓地もあり、少し恐怖もあったがあてもなく宿泊場所を探して歩く時間もなかった。

 誰にも怒られることなく、無事に一晩を明かすことができた。当たり前だがテントの快適性はツエルトとは比べ物にならなかった。床面積の大差はないものの、安定した支柱と撥水性のある壁は何よりも僕を安心させた。さて今日の日に桑名まで行くことはできるのだろうか。恐らく無理であろう。思い込みでもなく残り約70kmという距離が簡単にそれを教えてくれる。夜遅くまで歩き続けたとしても、体力が持続するか分からない。琵琶湖徒歩一周の最終日には60kmほど歩いて脹脛がむくみだして、まともに歩くことが困難であったので個人的な経験則的にも70kmという距離には不安が残るばかりであった。しばらくして考えるのをやめ1秒でも早く歩き出すことにした。

 この日の難所は、水口宿から1つ目の宿、土山宿に入ってから2,3時間か歩いたところにある鈴鹿峠という峠だった。事前の情報では傾斜があり、かなり苦労しそうな場所と考えていた。コンクリートの地面から徐々に山道に入っていき、最初は緩やかな登りが続いた。いつ峠の難所が来るのだろうかと身構えて登っているうちに、いつの間に鈴鹿峠の頂上に着いていた。登山経験も関係しているが、水平に歩くより傾斜のある坂を登る方が荷物の比重が分散されて歩きやすい。しかしそれを加味しても、あまりにもあっけない峠だった。苦労しないことに越したことはないが、旅には時々苦労や惨めさ、何か物語性のある試練が幾つかあっても良いと思う。土山宿に入ってからというもの、街に昔ながらの建物が増えてきたせいもあってか人の愛想が良いと感じる。時々すれ違う学生が、明らかに近所に住んでいなさそうな身なりをした僕を見ては挨拶をしてくれる。東海道という場所とその土地の特性がうまく作用しているのかもしれない。少し歩いて関町と云う、木造建築が立ち並んだ町があった。地面だけはコンクリートでしっかりと整備されている。多少の補強はあるのかもしれないが、建物はそのまま残っており、中には現代的なお店が入っているという街並みだった。背の高い建物がなく1本続く道からよく晴れた空と遠くの山々が見渡せた。行動食が切れて初めていたので、菓子屋に入り、江戸時代から食べられている白玉という饅頭と伊賀忍者の行動食だったかた焼きを購入した。かた焼きは少し後に食べたが、文字通りかじるのに一苦労するくらいの硬さだった。その場で食べるようにシュークリームを買った。店内のベンチで座って食べていると、店番のおばさんが水を出してくれて少し世間話をした。

 当然この日中に桑名までたどり着くことはできなかった。僕が行き着いたのは石薬師という水口宿から47km地点にある場所だった。桑名まではまだ27kmほどある。時間的にも体力的にもリミットを迎えており、大関ママに今日は着かないという旨の連絡をした。大関ママいわく、既に梅雨がはじまりかけているが、明後日の早朝に出れば安定した気候の中出発できるということだった。明日中には確実に桑名に行けるので安心して僕は石薬師に泊まることにした。そう決心しても野宿場所を選定するのにまた時間を要した。結果的に踏切近くにある橋の付け根にかすかに存在する、大きな気が1本生えた小さな空き地にテントを張った。僕はいつまでこんなことを続けるのだろう。旅をするとさらに次は別の場所に行きたいと云うふうに切りがなくなってしまう。これは消費活動に似ている。1つ買ったら、あれもこれも欲しい、古くなったから新しいのが欲しいと言って終わりが見えない。野外活動をするということはある種そういった思考から離れるためでもあるのだが、これでは物が行動に変わっただけであまり大差はないのではないだろうか。僕は恐らく、行動の動機の片隅に誰かからの称賛と承認を求めている。行動欲求と承認欲求にはなかなか勝てない。行動に関してはやりたくなければやらなくても良いと思うかもしれないが、そういうわけにもいかない。最近義務のようになってきて、これをやらなければならない。やらないと人生が前進しない、と云うように思う。

 桑名に到着してから、大関ママに連絡した。明日の朝から天気が悪くなるらしく、急遽今日出発することになった。梅雨が始まると桑名で何日足止めされるかわからない。船の場所まで少し距離があったので慌てて向かうことになった。もともと今日出発の予定はなかったので、出発時間も遅くしていたのだが、なんとか15時頃に待ち合わせにしていた船場近くの公園に到着した。大関ママは軽トラで迎えにきてくれており、僕は軽トラの荷台にザックを積んで助手席に乗った。大関ママはマスクをしていたが、若々しく良い年の取り方をした40,50代に見える容姿だった。

 船を見せられた時、正直に言って僕はこんな小さな船で大丈夫だろうかと思った。船は船場のいちばん端っこにあり、そこに行くまで何個か大きめの船を見ていたので、まさか自分がこの小さな船に乗るとは思わなかった。船は屋根なしの平らなエンジン付き小型ボートだった。僕はカッパを上下に着込み、大関ママから貸してもらったライフジャケットを着て船に乗り込んで出航した。大関ママはボート後ろの運転席に立って操縦、僕は運転席の少し前に座った。驚いたのはそのスピードだった。僕が今まで乗った船というのはフェリーくらいしかなかったが、身を晒して乗る船で体感する速度感と肌に感じる緊張のようなものは新鮮だった。天気自体は安定していたが、海は予想に反して荒れていた。海の底が浅い部分では海流が地面にぶつかって波が起こりやすいからだ。底の浅い箇所を通る間、船は何度もそのうねりによって大きく持ち上げられ、勢いよく海面に突き落とされた。今思い出しただけで、軽く酔うことができそうなほどだ。僕は何度も大関ママの方を振り返り、この状況は大丈夫なのかと聞くことしかできなかった。大関ママは安定した体感を用いて立ちながら船を運転し続けた。ようやくうねりが治った頃、僕は立ち上がり運転席にいる大関ママと少し話した。運転席に立つと座っていた時よりも風の影響を受けやすく、立つのに苦労した。大関ママと僕には1つの共通点があった。それはお互いワンダーフォーゲル部に所属していたということだ。四国のお遍路を大きなザックを担いで歩いたりしたそうだ。この体幹の強さの秘密が少しわかった気がしたが、それだけでは到底身につかない長年の船乗りとしての技術が体に染み込んでいる気がした。大関マの実際の年齢は70歳だった。積み上げてきた経験と時間が違う。穏やかになった海を大関ママと2人運転席に並んで進み、目に見える風景や建物について説明してもらった。

「桑名から出たことない」
悲しげもなく軽快な口調でその言葉は発せられた。
何気ない会話の中で違和感なく滑り込んできた不自然なその言葉は、私に強い違和感を覚えさせた。会話の文脈に関係のない言葉が発せられた時は、その人自身における何か重大な要素を絡めた表現と読み取れることができる。例えば、先日こんなことがあった。個人営業のカレー屋に足を運んだ時、店主にふと「1人でやられてるんですか」と尋ねた。
「はい、自由にやってます!」
明らかに会話の文脈として不自然さが存在する。1人でやっていることよりも個人営業として自由にやっていると云うことがこの人の一番言いたいことなのである。不自然さが存在するのは、それを少ない会話のコミュニケーションの中で頑張って僕に伝えようとしている証拠だからだ。では、大関ママは一体何を伝えたかったのかということは僕には踏み込んで彼女に聞くことはできなかったけれど、桑名への愛着心もしくは、それを裏返しするワンダーフォーゲル的な外へ向かう逃避思考を表現していたのかもしれない。
 宮宿に着いて、一緒に写真を撮って僕らは別れた。お別れの時に七里の渡しを渡った証明書をもらった。海はまだ荒れており、大関ママは近くの避難港で待機した後、翌日に帰宅したみたいだった。僕はその日、船着場にある屋根付きの休憩所を寝床に決めて、近くの温泉で汗を流し、ハンバーガーを買って寝床に戻った。

 予報通り梅雨が始まった。雨が降ったり止んだりと不安定な天気が続いた。僕は雨が嫌いじゃない。冬の雨は嫌いだけど、暖かい季節の雨は涼やかな晴天よりも好きな方だ。雨が降れば自然と無心になることができる。雨に対する煩わしさや、怒りのようなものは当然存在するが、その思考を持続させることはできないので、徐々に無心になってくる。ただ雨が降っているという事実だけを受け止めて、まるで雨が降っていないような形相で歩く。これがうまく行くとかなりスピードを上げて歩くことができる。

 途中江戸時代から現存する松の並木道を通りながら、江戸の旅人の荷物について考えてみた。僕は今40リットルのザックをパンパンにして歩いているが、江戸の旅人の装備を調べてみると実に身軽なことがわかる。少しの荷物に、タバコや刀等の小物があるだけである。このスタイルは東海道に53個の宿場が実際に存在し、寝泊りや補給を可能にしていたから可能になっていたかもしれないが、やはりこのミニマムなスタイルというのは羨ましく思う。そして彼らは、大体14日間で京都と江戸の間を歩いたそうだ。装備が重くなっても、当時の人々と同じペースで歩けているという部分においては自分自身評価できることだと思う。71年、まるで江戸の旅人のような身軽さで日本列島3000kmを縦断してみせた男がいた。かの有名な冒険家植村直己である。彼は極地遠征において3000キロの距離を旅する計画をしており、その距離感覚を掴むために日本列島を縦断すると決めた。その時に彼が身につけた装備は財布と腹巻だけだった。言いたいことはたくさんあるが、僕は何も言えない。野外活動という経験主義的な世界の中では、僕が何を言ったところで実際にやった人の前では全ての言葉が虚構になってしまいそうな気がした。藤川宿という愛知県の岡崎市ある宿にたどり着いた。大きな道の駅があり屋根の下で寝袋だけ広げて眠ることにした。通り過ぎる人の足音と迫り来る虫たちが気になってとても安眠できる環境じゃなかった。

 ワンダーフォーゲル部に入ってから約4年間着用を続けているゴアテックス製のレインウェアは、もう雨をはじき返す能力を失ってしまい、全ての雨を吸い込んでしまう。それでも、まだ地肌には雨が届いてこないほどの最後の力を僕に見せてくれていた。昨日に比べて雨は強くなり、止む気配を全く見せることなく平均的な雨と豪雨のサイクルを繰り返していた。ここまで降られてしまうとペースは否が応でも落ちてしまう。かなりの豪雨で歩くのに支障きたしそうな時には、シャッターが閉まっているお店の軒先で少し休ませてもらった。こういった煩わしさや不安定な状況は、旅において過程に関与できている気がする。正直いって今回の歩き旅は過程に関与できているとは言い難かった。なぜ過程にこだわるのかというと、過程に関与した分だけその旅の充足度が増すと云うのがこれまでの経験からわかっていたし、目的達成のために効率と便利さを追い求めた行為は後に何も残さない。もちろん京都から江戸までの行程をテント泊中心にして歩いているということで十分に関与できている。しかし、僕の行動食はコンビニで買った柿ピーであり、朝食も夜食もそれで済ますことが多い、僕の体は燃費が良いようにできているらしい。何か買ったとしてもコンビニ弁当や袋麺で、お店に入って食べるだけで膨大な時間を削ってしまうことになりかねない。また野宿の場所もなかなか場所が見つからない場合はグーグルマップで空き地を探す始末である。僕は以前数ヶ月間ガラケーを使っていたのだが、その不便さに耐えかねてまたスマートフォンに戻ってしまった。何だか土地との繋がりが薄いような気がする。歴史的なことに関する事前調べも甘かった。宿泊地もあらかじめ決めておき本の地図に記載しておく、食料も最初の段階で多く持って頻繁に補給しないで住むようにしたり、地元の名産を調べて食して行ったりするというのが理想に近い。もちろん最初からその考えもあったのだが、荷物の重さや手間がかかるという点、徒歩のため簡単に食事を買いに行けるわけではないという言い訳じみた理由を思いつき、結局は何もやらなかったのだ。普段の生活と同じように効率を優先してしまったわけである。後悔しながら歩きつつも京都から東京まで歩くことが最大の目的なのだから、僕に残された最後の思考は開き直りということしかなかった。関与しすぎるがあまり最終的な目的が達成できないようでは本末転倒であり、目的達成ための目標はあくまでもシンプルで明快な手段に過ぎない。それを間違えると目的が多くなり自分がどこに向かっているのかも分からなくなってしまう。

 5日目にして静岡に入ることができた。愛知県を2日で抜けることができるとは思ってもみなかったが、かなり良いペースで歩くことができている。雨はまだ降り続いていたが、目の前の視界が不安定になるような雨はもう降っていなかった。体温の上がった肌に年季の入ったゴアテックスから感じ取れる細やかな冷感が気持ち良かった。日も暮れていたころ、木造建築の小さな観光案内所のような建物が右手に見えた。僕は入口まで近づいて開館時間が過ぎていることを確認する。ザックを下ろして建物の横にある駐車場の広さや裏側の広さも入念に観察した。通行人が僕の姿を一目見れば、雨の中不法侵入のタイミングを伺っている怪しげな男に見えるかもしれない、2目見れば、もしかしたらここで野宿を検討している疲れた旅人と思ってくれるかもしれない。道路沿いということもあり、人目を考えた上でもう少し歩くことにした。感覚的もこの建物の近くには泊まれないような気がした。不吉な予感ではなく霊的なものでもないが、ここには泊まってはいけないような気がした。地図を見ると東海道は南東方向に降っていてもうすぐ海が見えそうだった。

 中学生のような1人の少女が僕にこんにちは、と挨拶する。土山でも挨拶を何度か受けたが、何故お風呂にもたまにしか入ってない髭も無造作に伸び始めている男にわざわざ声を掛けてくるのか。僕なら声を掛けないと思う。へー旅してるのかな、くらいの心持で横目にー実際にはもっとネガティブな目線でー通りすぎるくらいだと思う。東海道付近には旅人に会えば挨拶でもしておきなさい、後で良いことがあるかもしれない。それとも怪しい人がいたらとりあえず挨拶をして変な気を起こさせないようにしなさいというような防災教育が行われているのかもしれない。僕に挨拶をしてくれる学生は大抵が1人で歩いていたり、自転車に乗ったりしている。自転車で僕を追い抜き様にわざわざ振り返って挨拶してくれるなんて、ちょっとどうかしてると思う。見た目にこれといった特徴もなく至って普通の学生に見える。そういう学生に限って僕に挨拶をしてくる。何か僕を見て自分との共通点を見出しているのだろうか。きっと彼らは、よく知らない人が学校に来て講演をした後に書かされる感想文も上手く書いてしまうんだろう。東海道から少し外れた場所にある公園の中に、屋根付きの休憩所を見つけたので、そこにテントを張ることにした。かなり海に近づいたが、地図上での数ミリ、数センチは実際の数キロに匹敵するので僕が思い描いていた長距離歩行の末に眺める壮大な海、というシュチュエーションは再現されなかった。

 僕は歩いている時人に話しかけられて雑談程度の会話をする時に、つい道を聞いてしまう。自分が間違いなく予想通りの道を歩いているのか確かめられる時に確かめておかないと、数kmの間違いが何時間もの時間のロスになりかねないからだ。歩いている時は多くの不安が付きまとう。今日はどこまで歩けるのだろうか、日はあとどれくらいで沈み始めるのだろうか、雲の動きは怪しくないか、そのような不安を常に頭の片隅に置きながら歩いている。しかし、道を聞くという行為の不純さと罪悪感は道を聞いた後に常に付きまとう。ワンダーフォーゲル部に所属していたときは、紙の地図を持ち歩きコンパスで道を確かめながら進んでいた。それが当たり前だったし、誰もスマホのGPSなんて使わなかった。僕が大学1年の時、海外遠征で使う名目で初めてGPSが取り入れられたくらいだ。導入後は藪の中を彷徨ったとき、冬山のホワイトアウトで現在地が不明瞭で行手を阻まれた時に初めてGPSを使う。何事においても答えがすぐにわかってしまうということは何処か味気ない。答えがわかってしまうくらいなら、違うとわかっていながらも可笑しな妄想に花を開かせる方が何倍も充実した解が得られる。人に答えを聞くという行為は、本来あったはずの道の整合性への不安や焦りを一蹴する力を持っている。一方で人に教えてもらう情報というのはネットで調べた情報よりもう不確かな面もある。人の記憶と云うものは想像以上に曖昧模糊なものであり、本人の悪気のない記憶の改竄によりとんでもない答えを信用しかねない。そういった点では、グーグルマップでその日の野宿場所を探す行為よりも道を聞かなかった時に感じる不安さとはまた違う不安を感じるとことにより旅や土地その関係性を深めてくれることになる。

   6日目の夜、初めてホテルに泊まった。持ち歩いていた地図にもともと記載してあったホテルの中で一番安いホテルに入り、予約なしの当日チェックインをした。ホテルに泊まった理由としては、ある程度生活感のある街並みに出たことによって野宿場所が少なく、見つける苦労よりも疲れた体を一刻も早く休めたいという事情からホテル泊を選択した。ホテルに着く少し前に大きな橋の下で野宿できそうなスペースがあったが、雨の影響で土の状態があまり良くなかった。睡眠という旅において重大な行為を湿原のような場所に託すことはできなかった。自分の部屋に入って荷物を置いてからすぐに駅前のコンビニに向かった。そしてここぞとばかりに、じっくり腰を据えて食べることができるお弁当やカップヌードルを買った。飲み物はコーラを買うなどして高カロリーのもので体の超回復を図った。私は普段旅行をする時でも、ビジネスホテルで買ってきたものを食べるのが好きだ。ご当地のものを食べたいとは思わないし、何処か観光名所を巡りたいとも思わない。僕は休憩をするために旅行しているのではないかと考える時がある。高速道路移動でのサービスエリア、スキー場に行ったときの室内で飲むココアが僕に充実な旅行体験を与えてくれる。

   カーテンを開けると、雨が降っていた。雨なら昨日もその前も降っていたが、窓越しに見る雨はいつもより強く降っているように見える。気づいたら僕はフロントの前にいて宿泊延長の申し込みをしていた。7日目の朝、僕は停滞を決めた。疲れていたのか食事と洗濯以外特に何もせず、娯楽用に持ってきた単行本サイズの2冊の本も開かれることなく一日が過ぎた。

 カーテンを開けると、雨が止んでいた。町は霧に包まれ、今にも雨が降りそうな雰囲気の中僕は歩きだした。街中を過ぎるとだんだんと山道に入っていき、左右茶畑の景色の中を歩くことができた。茶畑を抜けると石畳が出現し、雨に濡れた石の上を滑らないように慎重に歩いた。梅雨のせいなのか、この間ほとんど人にすれ違わなかった。三重の関宿とはまた違った、東海道の歴史が残る場所を静かに探索することができた。静か過ぎて眠たくなってきてしまうほどだ。しかし眠気の原因は何も静寂が原因だけではない。ここ最近歩いていると眠くなり気力がすぐに落ちてしまうという現象が多くなっていた。その原因が今日やっとわかった気がする。それは行動食である。僕は京都を出発して数日、行動食は柿ピーが中心だった。日数が増えるにつれ、歩く距離が増えるにつれ、気分転換や体の本能的な欲求により糖分の多いクッキーやチョコレートを食したくなる。それらの食べ物がもたらす作用は急激な血糖値の上昇と低下である。血糖値が下がると理性ではどうにもできないくらいの睡魔に襲われる。柿ピーのようなナッツを含む食べ物は血糖値が一定のラインで持続しやすく、食べてから次に空腹に襲われるまでの時間も長いので集中力が長く続く。僕は柿ピーとミックナッツの行動食に切り替えて、徒歩旅に集中できる体づくりに切り替えた。

 おそらくこの旅で一番大きく長い川、大井川橋を渡るころ僕は雨に降られていた。キャップのツバで水滴が目に落ちないようにし、レインウェアのフードをかぶって静かに歩いた。大井川は川の幅に対して水が流れている箇所が小さく、大井川という広大な土地に対して小さな小川が幾つかの分岐を作って流れているように見えた。灰色に近い砂利とまばらに生える草木を見ると、退廃した世界を眺めているようであり、また別の惑星の文明未満の雰囲気を眺めているようであった。橋を渡り切ったあと、テントを張れる場所を探した。小さな公園のような場所を見つけたが、面積的にも衛生的にもあまり気が進まなかった。雨が強くなってきて、探す気力が衰えてきたので少しの間その公園に座り込んだ。そして5秒間だけ、目の前を通る選挙カーに向かって手を振ることだけに集中した。少し先に進んだ所に広い公園があって、屋根付き休憩所も存在したので、そこにテントを張ることにした。

 翌日になっても雨は治らず、レインウェアもこれ以上雨の中を歩くと雨が染みてきそうだったので、この日は停滞することにした。ホテルの快適性とテントの快適性を比べて時、寝袋が濡れてしまったという類の緊急事態がない限り僕はテントを選ぶと思う。狭いテントの中では、ガスの暖かさはすぐにテント中に広がるし、適度な閉塞感が基地性を産み出し快適に感じる。唯一の欠点は、まさに寝て一畳起きて半畳のところだ。この日自分の食料を見てみると、行動食はなくなり袋麺1個しかなかった。近くに補給できそうな場所もなかったので、夜まで袋麺をとっておいて、それまでは紅茶に練乳を入れたミルクティでカロリーをとることにした。ミルクティーを飲む以外は特にすることがなく洗米と無洗米と玄米の違いについて考えて時間を潰した。

 雨は止み、レンウェアも乾き切った翌日、清水に向かって歩き出した。愛知を2日で抜けたせいもあって静岡を抜けるのに異常に時間がかかっていることにもどかしさを感じていた。停滞を除けば1日平均40kmの歩行距離で順調に進めていることに違いはないが、1つの県を端から端まで歩き切るという時間感覚はどうもまだ体にうまく馴染まない。
最近感じるのはこうした徒歩旅行や登山は大方予定調和に物事が進むということである。もちろん今回の旅同様、道中で天候に左右されたり、道を間違えたり、人と出会ったり、この瞬間の旅的な要素は多々あるのだが、一連の流れとしては予定通りに事が進む。もっと言うならば出発時に一歩踏み出した時からその旅の成功はほとんど確定されているし、登山で言うと登り始めた時から終わりは始まっている。登山においては天候不良や道迷いなどで遭難の可能性はあるが、それがなければ登山道を辿ると目的地には着くようになっている。ある程度時間に余裕があれば尚更である。これまで登山や徒歩旅行等で広大な自然なの中にある登山道や東海道五十三次という道を自分の意志で歩いてきた。しかし一見自由に見える旅であっても、他に選択肢のない決められた一本道を歩くしか他ないという束縛にあっているのだ。それは普段歩いているコンクリートの道と何ら変わることなく無意識に私は歩いている、歩かされていると言ってもいい。当然その道との関わりも薄くなっていくだろう(もちろん地図での現在地把握等はしているので普段の道よりは土地との関係性は少なからず深くはなっているのだが)。そんな予定調和な旅にモヤモヤしながらも、旅はあと4日で終わろうとしていた。

 清水駅近くの公園でテントを張った。駅が近いせいか電車の音がよく聞こえる。僕は20時くらいには眠るので、寝る瞬間まで電車は忙しなく走り続けていた。寝転びながら友人との江戸での再会に思いを巡らせた。僕が公園で停滞した日、ミルクティを飲みながら過ごしていると、友人から1時間後に君を新幹線で追い越す、というメッセージが届いた。彼は僕のワンダーフォーゲル部の同期だが二年生から入部したため歳は1つ上だった。無事に企業に内定し、リモートでの研修を受けたあと東京配属が決まった。せっかくだから、僕は君より早く出発して歩いて東京に向かうから、着いたら会おうと約束した。僕より1週間ほど後に出発して彼が一瞬で僕を追い抜いた。そして彼が働き始めた後もきっと、僕は江戸に向かって歩き続けている。

 東京175kmと書かれた看板を頭上に過ぎて歩き続けていると、男の老人が1人こちらに向かって歩いてきたので僕の方から挨拶を交わした。
「こんにちは」
「こんにちは」 
「・・初めてじゃねえぞ」
焦げ茶色の麦わら帽子に半袖長ズボン、片足にガムテープの巻かれたハイカットシューズを履いているその怪しげな老人は僕にそう言った。
「いや、2回目でもねえ」
「いや、初めましてだと思うんですけど この道を通るのも初めてですし」
「いや、この前もお前さんはそんな風に本を持って歩いて来て挨拶して来たんだ」
雨が降っていない限り僕は基本的に本の地図を持って歩いている。この日もいつも通り本を手に持っていた。
「それはいつのことですか?」
「つい最近のことだ」
その時、向かいの車線に一台の車が止まり運転席から人が出てきて僕らのいる歩道側に歩いて来た。
「ほら、今の運転手、この前も同じ運転手が向こうからこっちに渡って来てた」
「本当ですか?」
「こういうのはなんて言うんだ 幻現象か?」
おそらくデジャブと言いたかったのだろうが僕はあえて訂正せず話の続きを待った。
「俺はあんたにどこから来たんだとは聞いてないだろう」
「京都からか?と聞いただろう」
「そうでしたかね」
定形文的な挨拶だったので、記憶が定かではなかったのでうまく否定できなかった。
「そういえば、この前写真を撮ったんだ。あるかもしれねえ」
「本当ですか?」
僕はこの人に一度も会っていない。もしもカメラに僕、または僕のような人が写っていたらその人は一体誰なのだろう。怪しげな老人は小さな固形石鹸のケースからデジカメを取り出した。そして過去に撮った写真を1枚ずつ確認していく。僕も横から覗き込んだ。早朝の澄んだ空気の中には、ほんの少しだけかもしれないけど緊張感に似た雰囲気が漂っていたと思う。
「ああ、写ってないな」
「SDカードも入れ替えたばかりだしあんまり古い写真が残ってないなあ」
僕は念のため老人からカメラを貸してもらい写真フォルダを2、3周した。僕の姿は依然としてどこにも写ってなかった。老人の言ったことが本当かホラを吹かれただけなのかはわからない。しかし老人は全面的に、僕は部分的にではあるが写真フォルダに僕の姿が現れることを期待していた。もう二度とこんなことがないように、次に似たようなことがあったら確実に証拠を示せるように、僕らはお互いに写真を数枚撮り合った。
 薩埵峠を過ぎて、もしかしたら富士山が拝める場所まで歩いてきたかもしれないと思い昼頃から入念に富士山を探した。正確な方角がわからず、曇り空のせいもあってすぐには見つけられなかったが、しばらくして山頂に雲がかかっていたがその姿を拝むことができた。富士山を横目に日が暮れるまで歩き続け、公園のベンチ裏でテントを張った。進むべき道はわかっている、しかし今日自分がどこに泊まるのかは直前までわからない。予定調和な旅の唯一かもしれない不確定要素が1日の楽しみでもあった。

 箱根路という車道から離れた路地を進み、箱根の峠越えを目指した。峠に入るまでは少しの間この路地を歩いていく。墓地に隣接する寺が目に入った。墓地と墓地の間には、人が通れる1本の道が続いており、その延長線上には雲1つかかっていない富士山の姿があった。この景観の中で眠れたらどんなに良いだろう。お寺の管理人らしい人に、この寺の前の道路はは昔一号線として扱われており、今よりも人の往来が多かったことを教えてもらった。 
石畳の道に入り傾斜も大きくなってきたことによっていよいよ箱根峠に差し掛かったという感触があった。やはり傾斜があると重りの分散と身体的な登山の慣れによって、平地よりも快適に進むことができた。もしも東海道が土道で緩やかな登り坂だったらもっと早く江戸についていたかもしれない。災害の影響で山道から車道を迂回せざるを得なかったので精神的、身体的に厳しい場面はあったものの箱根峠を登り終え神奈川県に入った。

 箱根には関所と呼ばれる、昔県境を通る時に使われた場所が今でも残っている。関所の中にある団子屋で団子を買って食べていた時くらいから、雨が降り始めた。しばらく止む気配もなさそうだったので、団子の皿を返して先を急ぐことにした。出発して程なくして山道に入った。夕刻で日はまだ登っていたが、山道に入ると木々によってその光は失われ辺りは暗くなる。降り頻る雨と森の中の暗闇が僕の気力をみるみる落としていった。単独行と暗闇の相性は悪い。僕はいつも暗くなりすぎる前にテントに入ってライトをつけることによって、完全な暗闇に身を包まないようにだけ注意を払っている。目に見えないという単純な状況がもたらす恐怖感情は小さいものではない。時にそれは僕を軽度のパニック状態にして呼吸と歩行速度を荒くする。日も実際に落ちてきて、どんどんと暗くなり始めた。地面は石畳だったが、雨の影響で状態が不安定になっていて僕は何度も石畳の上で滑って転んだ。早くこの箱根を抜けて小田原に降りたいという思いと急ぎすぎると石畳に足を取られるというジレンマの中で苦しみ続けた。石畳で転ぶたび、僕は怒りと恐怖を紛らわすために叫んだ。どうせ誰も聞いていない。罵詈雑言を僕は大きな声で精一杯叫んだ。

 ホテルに泊まりたかったが、できればホテル泊はあと一泊に留めたかった。13泊のうち最低でも10泊は野宿することによってこの旅が旅として成り立つ、そう考えた。最後の1泊を明日にして、明後日に友人に会う準備として体をきれいにしたかった。かなり海も近かったので、道を逸れて海へと歩いた。最後の野宿をオーシャンビューで飾ることにした。砂浜の上にはバイパスのようなものが走っており、良い屋根になると思った。支柱の横にひっそりとテントを構えた。目の前はもう真っ暗で遠くまで望むことはできなかったが、波の音が静かに聞こえた。

 完全に疲れ切った体を横にして就寝の準備に取り掛かっていた22時ごろ、外から数名の若者の声が聞こえた。結構大きな声で話して遊んでいて、大音量で音楽まで聞こえてきた。テントのチャックを少し開けて、外を見てみると若者達が花火をしていた。少し早い夏の訪れを楽しんでいた。僕はテントのチャックを閉めて再び眠る準備をした。花火が終わったら静かになるかもしれないと思い、しばらく落ち着くまで待機した。予想は外れてしまい、音楽の音量は次第に大きくなっていた。しばらくして音が大きくなっているのはなく音自体がこちらに近づいてきていたことに気が付いた。私から10m横にあるテトラポットが積み上げられている場所に座って話だした。今度は近づいてきた影響ではなく、音楽のボリューム自体が上げられた気がした。話している様子を僕はテントの側面にある小さな穴から覗いていた。僕がホテルに移るか、若者達がお開きになるまで待つかという冷戦状態が続いた。夜通し遊ぶ予定だとしたらと考えると不安になっていたが24時に近づいてきた頃一人の男が終電だから帰ると言い出した。少しの安堵感を抱きテントで横になっていると、数分後大音量の音楽は一瞬のうちに消え去り、終電で帰った男以外の若者達が一斉に走り去り、砂浜を蹴る音が聞こえた。本当に一瞬の出来事で、一瞬のうちに世界が変わってしまった状況に理解できなかったが、とにかく静寂は訪れた。一点疑問が残るのが、なぜこれほどまで一瞬に全員がいなくなったのだろうかと云うことだ。僕は静かにテントのチャックを開けて外の様子を確認した。辺りを見渡してもても、もう若者達は何処かに消えていた。ふと目線を下にすると、僕がこれまで履いてきた運動靴も何処かに消えていた。運動靴はテントの入口すぐ近くに置いていた。運動靴がなくなった事実は視覚を通して認識したが、僕の脳はその処理にしばらくの時間を要した。運動靴が確かにそこに存在していた事実だけを示す、砂浜の凹みだけが残っていた。幸い、ザックの中にレストシューズとしてサンダルを入れていたので明後日に通るはずの銀座通りを裸足で歩くということはしなくて済みそうだった。もう24時をとっくに過ぎていたし、ひとまずの靴はあることからテントから出て外を確認せず明日に備えて眠ることを選択した。横になりながら、これまでの出来事を振り返り様々な因果関係を考えていった。運動靴が消えたそれらしい原因は簡単に作り出せるものの、僕がこの目で見たものあまりも少なく、何か証明することは不可能だった。風に飛ばされていったのかもしれないし野良犬が何処かに持っていったのかもしれない、運動靴が1人でに歩いていったのかもしれない。これくらいの信憑性しか僕には持ち合わせていなかった。

 テントのチャックを開けて昨日の出来事が夢でないことを確認した。ザックからサンダルを取り出し、砂浜に出た。辺りを見渡したり、しばらく砂浜を歩き回ったりしてもナイキの運動靴はどこにも見当たらなかった。落語の演目芝浜のように、誰かが運動靴を持って僕の目の前に現れて、靴のありがたみを教えてはくれないだろうか。全部嘘だったんだといってはくれないだろうか。夢はいつまでたっても覚めそうにないので、残り80kmという道のりをサンダルで歩く決心を固めた。若干の薄い雲を周りに覆いながらも、強く輝いていたその日の朝日は、東海道の終着点である日本橋寸前まで近づいている希望を胸に抱きながらも大きな蟠りを抱えてしまった僕の心情を見事に表していた。

 荷物を背負いながらサンダルで歩行するとことは想像以上の苦しさを僕に与えた。クッションが存在しないため、コンクリートに足の裏がそのまま打ち付けられている感覚で、豆ができたような痛みが襲った。人間の足、いや僕の足の裏はクッションという産物がなければ、これほどまでに弱いのかということを、ありありと実感させられた。横浜に入り、ホテルの快適性を夢見て足の痛みを我慢して42kmを歩き切った。ようやくあと1日というところまで迫ってきた。明日江戸に着く。ここまで現実味が増してくると、旅が終わったあとに何をするかが想起される。ネパール料理も取り扱っているインドカレー屋に行きたい、気になっている喫茶店に行きたい、友人に会いたい、髪も切りに行きたいし近所の銭湯に行きたい、何よりもちゃんとしたご飯を食べたい。これからできることはいくらでもある。時間だって僕には捨てるくらいある。唯一叶わない願いがあるとするならば、それは14日間歩き続けるはずだった運動靴の靴底が、どれくらい擦り減ったのかを確認できないことくらいだろう。

 最終日、サンダル歩行による足の痛みと突然の鼻血によって幸先が良いとはとても言えなかった。でも僕にとっては足の痛みや鼻血なんて、もうどうだって良いことだった。いくらでも足が痛くなってもらっても構わないし、鼻血も死なない程度だったらいくらでも出てくれて構わない。今日が最終日、それだけで何もかものことを許せる気がした。
老人ホームの前を通った時だった。
「どこか遠くまで行かれるんですか?」
40代くらいの男が僕に向かって話しかけた。
男はこの老人ホームで働いているようで、出勤する時間に僕と出会したのだ。
「あ、今日が最終日なんです。京都から歩いてきました」
「それは、すごい。良かったら好きなのを二本くらいどうぞ。ごちそうさせてください」
男は近くにあった自動販売機に指を向けて言った。
僕はこういう時全く遠慮をしない。普段の生活でも何かをもらう時、いったん遠慮して貰うなどといった作法は行わない。ありがとうございますと言ってニッコリと受け取る。それが僕の作法だ。僕はお言葉に甘えてお茶とスポーツドリンクをご馳走してもらった。
「どうしてここまでしてくれるんですか?」
「こういうの好きでね。僕はバイク乗りなんけど」
僕ももうすぐしたら、もらう側からあげる側にならなくてはならないのだろうか。僕が歳をとってから旅を続けていても、同じように誰かがジュースをご馳走してくれるのだろうか。

 多摩川を渡り、東京に入ってからは確実なゴールが約束された気がした。そう思うと急に安堵にも似た虚無感に襲われ、僕は無気力に足を動かし続けた。日本橋到着の瞬間を歩きながら想像してみた。
日本橋にいた飲み屋蹴りの若者達が僕を見て大きな声で話し出す。
「おい、なんか変なのが来たぞ!」
「どっから来たんですか?」
「京都から歩いて来ました」
「え〜!おーい、この人京都から歩いて来たんだってよ!」
「まじかよ!すげー」いつの間にか、人だかりができている。
「わーっしょい!わーっしょい!わーっしょい!」
最初にいた若者を中心に、僕の体は激しく上下して胴上げされる。
ちょうど13回目の胴上げが終わった頃、僕は下ろされて拍手を送られる。
目に力が戻ると、町はさっきよりも静かになっていた。

 品川を過ぎた後、銀座通りに入った。流石に今までで一番人が多い。ゆっくりしか歩けない僕は、目の前の歩行者に歩幅とリズムを合わせて歩くことによってスピードをあげた。気付かれそうになれば、また別の歩行者を探し同じことを繰り返した。ザックを背負い、サンダルを履いてずんぐりと歩く髭面の僕は、夕方のネオンが光り出した銀座通りに驚くほどマッチしなかったが銀座通りを抜けて日本橋に着くと、自然とそこは僕が求めていた場所であるかのように思えた。頭上にバイパスがあり、橋の下には川が流れていた。橋と川の存在はかろうじて東海道と現代を結びつけている鎖のように感じられた。しばらくして仕事を終えた友人がやってきた。14日間かかる長い待ち合わせだった。僕はこの待ち合わせの約束を果たすために歩き続けてきたような気がした。

 初めての長距離歩行紀行は無事に終わった。気持ちのままに飛び出してきたような旅であったが、最後までなんとかなった。長い間旅という現象に身を浸しながら、ただ目的地に向かって歩くだけという単調さの面白みを味わうことができた反面、直線的なルートをなぞる予定調和な行為につまらなさを感じた旅でもあった。身の回りの管理の甘さや、宿泊場所の曖昧さなど、荒さが目立ったが総じて合格点だと思う。友人と東京駅で別れたあと、僕は新幹線のチケットを買って数時間で京都に帰った。
目次