ワンデルング=ドイツ語 山野を歩きまわる、彷徨すること
ワンダーフォーゲル部に所属して、登山活動から始めたわけだが、今となっては徒歩の旅がメインになりつつある。歩くことは、それほど特別な技術を必要としない。部活動で身につけたキャンプの知識を用いて、テント泊をしながら、街で食料を買い、時々ホテルで休息を取れば、限りなく長い旅ができる。
山でそのスタイルを確立しようとすれば、食糧を予め多く持ち込んだり、デポしておいた荷物を回収しながら歩く必要がある。一方で、天候や水の確保、死亡の可能性などを考える要素も増える。余裕を持って、そういう山旅を遂行する能力がないため、部活動引退後は手を出していない。
目的地に辿り着くことを第一の目的にしながらも、僕の関心は移動にある。移動はいかなる手段であってもいい。そこにだわりや流儀のようなものはない。人力での移動の方が達成感や行動の深さは出る。けれど、誰かと一緒なら鉄道の旅なんかも面白そうだ。鉄道の旅なら、深さはないのかというとそうでもなく、着眼点やピントを変えることで、いかようにも深くはなれると思う。僕にはそういう、クリエイティブな視点はあまりないから、身体的行動に頼っているに過ぎない。
そもそも、最初に登山部ではなくワンダーフォーゲル部に惹かれたのも、垂直ではなく、出発地と到着地が違う区間を多様な手段を用いて移動するという部分に興味を持ったからかもしれない。
僕の現在のメイン活動は歩き旅だが、カヤックも時々やる。自転車はやっていないが、それらを組み合わせたり、単体での移動手段を増やしていけば、行動範囲はもっと広がっていくだろう。こういうことを5年くらい前から考えているが、あまり進展がない気がする。
ここ最近、自分の頭で思い描いた計画が達成できないことが多い。自分を過信しすぎたり、時間に迫られたりすることで、より良い結果が出せないままでいる。最新の完結した活動でいうと、2023年に行った日帰りの徒歩浜名湖一周だろうか。2024、5年と山に登ったり、徒歩旅(未完結)に出かけたりしたが、自分の記録にはならないものばかりだ。2024年に、京都の鞍馬駅から佐々里峠まで廃村八丁を経由して歩いたのは良かったと思う。いい思い出はきっとたくさんあるはずなのに、思い出を思い出として、きちんと受容できないくらいに今の日々が不安定なのかもしれない。
本格的な登山家でもなく、本格的な自転車乗りでもない、本格的なカヤッカーでもない。技術的な高さは追えない、風を切る速さも出せない、荒波も越えていけない。少し起伏のある林道や街の中、凪の海を、静かに長く移動する。
今まで、追い詰められたように(理想の自分や残りの人生に)生き急いできたが、自分を気まぐれな観光客でもあり、時々厳しく惨めな移動も行うという、限りなく広い定義の旅人に位置付けることで少し楽になれる気がする。
過程にこだわりすぎると、いつまで経っても目的地に辿り着かない。過程にこだわり続け、長い年月を耐え抜いたものにしか見えない景色があることも確かだ。先述したが、第一の目的は、ゴールにつくこと、そしてそこまで移動し続けること。限りなく人力に近い形で。移動にかける時間や手段(人力範囲の)はもちろんのこと、単独か集団でいくか、テント泊かホテル泊かもすら拘らなくてもいい。身体的・精神的に追い込まれたら、旅が持続しない。仲間と共に活動したり、ホテルに泊まることで目的が達成できるのなら、それでもいいのではないだろうか。たとえ周りから甘えだとか、緩いとか言われたとしてもいい。批判する人たちは、僕が怪我をしたり、死んだとしても何一つ責任は取らないのだから。無意識に自責を他責に変えるだけなのだから。
「もし私の冒険が誤っていたとすれば、そのときはそのときで、人生が刑罰によって私を救ってくれるであろう。しかしもし私が全然冒険を試みなかったとしたら、一体誰が私を救ってくれるのであるか?」−キルケゴール『死に至る病』
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